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柳宗悦が、招かれずに、ここを訪れる

 

柳宗悦が、招かれずに、ここを訪れる

 

        わたしたちがバイム村に着いたのは、太陽が間もなく地平線に没しようとする頃だった。見事な茜色に染まる空の下、延々とつづく栗林は葉を落として寂しげな枯れ枝を冷気に晒し、厳しく潔い美しさを印象づける。フェン青年が村境に立つ老木の下で、わたしたちを出迎えてくれた。中国式の青い上着をまとい、袖に両手を隠している。優しい声で挨拶を述べ、わたしたちを家に案内してくれた。小径は静まりかえり、地面を踏む微かな足音さえ聞き分けられるほどだった。

        庭に入ると、大きなのと小さいのと二匹の犬がはしゃぎだす。フェンとキンの手作りの陶器の数々を、わたしたちは飽かず眺めた。居間の小卓を囲んで座るように勧められた。冬にはこの居間がふたりの工房にもなるそうだ。フェンがプーアール茶を淹れ、小さな碗に静々と注ぐ。この碗もフェンの手作りの品で、お茶ばかりでなく酒を呑むのにも用いるという。

        陶芸家は誰でも茶の淹れ方には必ず一家言ある。茶と陶は、茶と話のように縁が深い。お茶を頂きながら、あれこれ話を始めた。来訪の目的なども、その折に述べた。稀に説明が必要に思える時がある。しかしたいがいは言わずもがなと判明する。フェン宅を訪問中は初めから終わりまで、茶の芳香に包まれて、言葉を口にする必要を感じないことがままあった。意思の疎通を支えたのは、言葉の穂を継ぐ間の静寂に相違ない。

        お会いするまで互いのことは何一つ知らなかったのに、出会いは長く待ち望んだ末の出来事のように感じられた。(別れの挨拶を述べたとき、わたしたちの言葉がキンさんの思い出を呼び起こすきっかけになったらしい。キンさんはその情景を夢に見たことがあるような気がすると仰った。)

        田中功起の「一念」を実現するため、陶芸家を訪ねる私たちの旅は初冬に始まった。これはたんなる見学旅行でもなければ、陶芸研究のための現地調査でもない。それよりも偶然の巡り合いと友人からの手助けに加えて、一期一会を求める旅に近い。田中の「一念」を実地に試す探索行でもあった。

        田中の「一念」は多くの要素から成り立っている。柳宗悦、浜田庄司、田中の故郷である益子と町の陶芸美術館、日用の陶器と地震の際に目にしたその破片、日々のありふれた諸々の経験の間の関係性、手と心、私心と無私の心、現代美術の制作活動とひとが生き延びるための手業、等々がそこに関わっている。

        民芸運動の孕む逆説について、わたしたちは議論をかさねた。柳宗悦と浜田庄司の主導する民芸運動は、近代社会に民芸の美を再認識させることを目指した。民芸とは民衆の工芸であり、普遍的であると同時に個人主義を超越する。ところが、民芸運動は実際には個人に対する意識の高まりを後押しすることになった。民芸運動が始まってからというもの、かつて作家の名を記すことのない協働作業の成果であった陶器作りは、個性と作者の存在が裏付ける芸術作品の創作行為に変容した。柳宗悦が個性あるいは個人の存在にもまして尊び、称揚した「無銘の美」や神秘的な「他力」が忘れ去られる結果になったのである。

        陶芸家で映画制作も手がけるタン・ホンギュのドキュメンタリー映画を観ていなければ、陶芸と人の暮らしの歴史的な関わり、そして今日の陶芸をとりまく困難な状況を理解することは難しかったろう。タン・ホンギュ、ルー・ビン、ゼン・ウェイによる『中国南西部の少数民族の陶芸』は、中国南西部に暮らす諸民族の間に今日まで受け継がれてきた素朴な陶芸の手技を系統的に調査し、これを紹介する。陶芸の歴史的な進化を通じて、生存に不可欠な土地と天然資源から人間が疎外されるありさまが見て取れる。タンの手がけたもうひとつの映画『土と生きる』は、海南島に住む黎族の85歳の陶工ヤン・ベイリアンの平凡な一日の記録である。映画の中でヤンがこのうえなく素朴な陶器の作り方を披露する間に、映像は老女の一生を振り返り、その心の底に埋もれた世界の豊かさ、深み、孤独を観るものに実感させる。映画は亡夫を偲ぶヤンの言葉と共に終幕を迎える。「ひとは老い、やがて死ぬのです。つまるところ、この土塊とそっくりではありませんか」。これを聞いてわたしたちは、陶芸が人の暮らしを支えるエネルギーを実際に受けとめていること、このエネルギーを統合しようとする力と分裂させようとする力がそこに反映していることに気づかされる。陶芸は生き延びようとする人間の根源的な欲求と、じつに密接に結びついているのである。

        柳宗悦が民芸には近代社会を癒す力があると主張し、これを擁護しようとした背景には、近代化がアジアにもたらした波瀾と喪失感のあったことを理解しなければならない。人間が生き延びるために編み出した最古の手技のひとつである陶芸は、今日わたしたちにどのような可能性を与えてくれるのだろうか。わたしたちが世界との結びつきを取り戻そうとする時、陶芸はどのような手助けをしてくれるのだろうか。芸術作品の創造と生存のための技能が不可分であるとするなら、そうした結びつきをわたしたちはどのようにすれば再発見することができるのだろうか。どのような方法、試行によって、それは可能になるの
だろう。

        旅の一日、巨大な、そして繁盛を極める茶の市場をそぞろ歩くうちに、ア・ハイの店にたどり着いた。大きな店ではないが、一歩中に入れば、並の店でないことはたやすく感じ取れる。お茶を賞味しながら、茶の栽培法や今日の茶葉の生産法について話を訊いた。そうなれば中国の茶市場の混乱、ひいては人心の混乱にも触れないわけにはいかない。会話は四方山話の域を出ず、話題を絞って議論することはなかったものの、現代人の生活につきものの複雑な心模様にどうしても話は戻ってしまうのだった。

        しかし何よりわたしたちを魅了してやまないのは、物が姿を変えるときに生じる見通しの不確かさ、そして混沌である。土の塊が人の手の中で緩やかに形を調えるにしたがい、作者の心と手はじかに結びつく。その姿は心を象り、彩色、焼成が創りだす無限の機微はひとの知能のたゆむことのない変化と瓜二つである。自然素材は人の操作を越えて変容し、人をつねに挑発し、仰天させずにはおかない。こういった相互の働きかけこそ、真実を追求する唯一の道なのだろうか。

        旅の途上、わたしたちは様々な人々と出会ったが、だれもがなにかしら陶芸と関わる仕事に就いていた。それぞれに出自が異なり、境遇も異なり、異なる質問を提起し、田中に多様な可能性を考慮するように促した。そのひとつは以下の通り。陶芸は再び「無銘の」協働作業になりうるか。

        バイム村を訪ねた当日、フェンはまったく無造作に茶を注ぎながら、こう答えた。「もちろん可能ですよ。無私の心になりさえすればよいのです」。この言葉にわたしたちは一言も応えようとしなかったけれども、すぐさま可能性の扉が目の前に大きく開けたのを感じたのだった。

        田中功起が協働作業を試みる場合には、たいがい作家の提案を受けて何人かのひとの集う「瞬間」を目にすることになる。人々は集い、日頃の営為を踏まえながら、そこから一歩踏み出そうとする。9人の理容師が1人の髪を切る。5人のピアニストが1台のピアノを弾く。5人の詩人が一緒に1篇の詩を書く。6人の陶工が1客の陶器を作る(本稿執筆時点ではこのプロジェクトは作家の頭の中にあり、実現はしていない)などである。

        田中が「一念」をおこさなければ、人々がこうして集うことも、こうした試みをすることもなかったろう。しかし、そうした試みの成果は田中が決めたものでもなく、田中の指示を受けて行われたのでもない。それどころかアーティストはただ脇に立ち、事態の進行を静かに見守るだけである。ここではアーティストは創らない。その瞬間が生じるように促すのみである。そのうえ、そこに居合わせるひとは、撮影隊もふくめて自分のしている作業に、自分のことはそっちのけで、神経を集中する。だれもがその場で生じていることに意識を集中することによって、自分自身の存在から遠ざかり、より広範な状況に身を置く。だれでも、その場を覆う広大で優雅な静寂を感じ取ることができるだろう。話をし、身体を動かすひとがあっても、自らの存在をひけらかそうとする者はない。そうではなく、だれもがたえずエネルギーを分け与え、互いの存在を認め合おうと努める。

        こうした「瞬間」が、柳宗悦の憧憬した「救済」をもらたすのだろうか。この「瞬間」の救済こそ、まさにそれに当たる。わたしたちはこの「瞬間」を不断に創りださなければならない。そこにエネルギーが集えば、騒々しい世界でさえ静まり返り、しばしわたしたちと共に歩むことができる。しかし、この瞬間の方はわたしたちの命が尽きるまで、持続しうる。この瞬間は場を創りだせる。この瞬間こそ、世界そのものでありうるし、長い年月を経た後でも、わたしたちがいつでも里帰りできる場になりうる。。

        柳宗悦が、招かれずに、ここを訪れる。陸羽もまたしかり。すべてはここを訪れ、深い沈黙を守ってここにとどまる。

わたしたちが出会ったのには
なにかしら理由があったはず
そう定めたのは運命
出会いが遅れれば
風の動きが早まり
未知の世界にわたしたちを誘う

 

胡昉